2011年9月30日金曜日

イモ掘り 3

第2京阪が出来てから
大阪から京都に
行くのが早くなりました。

前までは高速乗るには
中途半端な距離で
乗り口も遠い、
遠回りになるし、
下道は、いつも渋滞している状態。

1時間弱で
姉妹のお家に着きました。


エペソ2:13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。


遠く離れていた私達が
近いものとされました。
それは本当に喜ばしいことだ
それはキリストによるものだ。

お家に着くと
お家の子が出てきてくれて
喜んで迎えてくれました。

いつも教会で
ピアノの伴奏をしてくれ
また私に歌の練習までしてくれる
教会の子です。

私の甥のようであり
息子のようであり
弟のようである。(弟にしては年が離れすぎか(^^)

とにかくかわいい
私の家族である。


エペソ2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。


信仰の巨人であるパウロもテモテには優しかった。
パウロもこんな気持ちだったのかな?


お家の中に入ると
教会の姉妹が先に来ておりました。
西宮から来たから遠かったろうに、
すぐ着いたとのこと。
韓国の祈祷院に何度も足を運ぶ
姉妹にとっては西宮、京都間は、すぐなのだろう。
この姉妹のバイタリティには、
いつも驚かされる。
今は、商店街を伝道しまっくっている。


ローマ1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。


まず、みんなで礼拝しました。
(賛美をして、祈って、聖書を読み、聖書の話を聞く)

そして、祈って仏壇を出し先生の指導のもと壊しました。
(こういうものは祈ってからするべきものだ。
また、先生、教会の導きの元することが良い。
手前勝手の考えでする人もいるが
勇気と無謀とは似って非なるものであり
信仰と無知もそうである。)


使徒 8:31 すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。


どんな時でも導く人は必要であり
その教えを聞き従うことは大事なことだ。


先生が壊していくところから
みんなで片付けていきました。


ローマ12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。


そして、
そのあと
姉妹のお父さんの畑で

イモ掘りをさせていただきました。


イモ掘りと聞いて
妻のテンションが
ドンドンドンドン上がっていくのを

横目に私は写真撮影に励みました。



姉妹のお父さんは

とても優しい方で

みんなが掘りやすいように

下準備をみんなしてくれました。

先生も採らしてもらいました



多分
そんなことなら
ご自分で掘られた方が
楽でキレイに
採れたろうにと

妻が「キャーキャー。」
言いながら
イモをほっている横で

感謝なことだと考えました。



たくさん

採れました。







一つの望みに生くる 

はらから共に集い
互いに仕えむつめば 

世になき安き満ちて 

あめなる喜びあふる 

麗し神の民よ
いざ共に讃え歌わん 

恵み深き主のみ名

(讃美歌Ⅱ 157 2番)




ゴボウ掘りも
させていただきました。

私もさせていただきましたが
うまく抜けずに
先が抜けずに
残ってしまいました。

なかなか体験できないことを
させていただき
ご飯もごちそうになり
とても感謝な一日でした。

2011年9月28日水曜日

イモ掘り2

お義父さんたちと
激安の家具屋さんに
行きました。

ここは家からは、
少し遠いのですが
とても安いいので、
他の家具屋さんと
値を比べると
中古の商品を置いてるんじゃないかと
思うくらいの値段ですが
アウトレットの新品を置いています。

でも、少し
名前が、恥ずかしいです。

激安 家具屋さん ウンコちゃん


良く選べば、
とてもいいものが、
安く買えます。

妻の
お腹が大きくなってきて
ベッドで寝るのが
辛くなってきたので
ソファーベッドを
少し見ました。

1万円以下で
なかなか良い
ソファーベッドが
たくさんありました。

学習机なんかも
ありえないくらい安く
まだ早いですが(早過ぎますが)
チラチラ見ました。


良いものが安いというのは
当たり前ですが
いいことです。

高級料理を
高いお金を出して
食べて
美味しくなかったら
腹が立つものです。


ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。


ヘブル2:6 むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。

しかし、神様は
人を救うために
大きい代価を払い
自分の子を与えてくださった。

到底、割に合わないはずなのに
神様はそれを見て満足してくださった。
愛ゆえに。



久しぶりに
お義父さんたちと
出かけたので
二人ともとても嬉しそうです。

どこに行くからではなく、
一緒にいるってことは
大事なことだと
思いました。

聖書には沢山
親孝行について
書いています。


 申命記5:16 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。

親孝行することは、
当前のことですが、
そうすると
神様が
長く生きすることを約束してくださり
幸せにしてくださるのだから
こんないいことはない。
どんどんしないともったいない。

一緒にお茶をすることにしました。

前から行きたがっていた
甘党まえださんに行ってきました。

ここのみたらし団子はとても美味しくて
餅がモチモチで初めて食べた時、
びっくりしました。

かき氷も
おすすめで
氷が細かく
フワフワで口でとろけます。





お昼の時間だったので
本当は、一緒に
にゅうめんを
食べようと話していたのですが
ここのお店では、
メニューにありませんでした。

にゅうめんの口になっていた
お義父さんお義母さんには
申し訳ない限りだ。


お昼が、かき氷になってしまいました。
ダイエットになるのかならないのか
微妙です。

お店を出て
お義父さんたちと別れ
先生たちと
教会の姉妹のお家に向かいました。

続く

2011年9月27日火曜日

水曜礼拝

 今週の水曜礼拝は、
先週の続きの

堅く信仰に立って、悪魔に立ち向かう 2 を

イザヤ49:16 の箇所から

お話させて
いただきたいと思います。

イザヤ49:13~16
13 天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その悩める者をあわれまれるからだ。
14 しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と。
15 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。
16 見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。


神様は、
私たちを手のひらに
刻んでくださいました。

なぜ、手のひらに?
刻んだのか?

その辺も
話していきたいと
思います。

2011年9月22日木曜日

日曜礼拝

日曜日の礼拝のメッセージは、

イザヤ53:11から

イエスの光~いのちの激しい苦しみによる実り と題して

メッセージをさせていただきます。

少し十字架について

重複したことを話しますが、

とても重要なところなので

あえて何度も

お話させていただきます。


イザヤ53:11

新改訳
 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

口語訳
 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。

新共同訳
 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。

2011年9月21日水曜日

水曜礼拝

今日の水曜礼拝は、

Ⅰペテロ5:8,9から

堅く信仰に立って、悪魔に立ち向かう です。


Ⅰペテロ
5:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
 5:9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。


今日は、
特別に示されるところがあり

今まで、あまり話さなかったことを

お話したいと思います。

2011年9月20日火曜日

イモ掘り

昨日は、久しぶりの祝日だった。

せっかくの休みなので
遅くまで寝ようと思っていましたが、
朝早く起きてしまった。

その日の予定は、
午前中は、
お義父さんとお義母さんに
激安の家具屋さんのことを話したら、
行きたいとのことだったので、
案内すろことを約束していました。

午後からは、
教会の姉妹の家に
仏壇を取り除きに行く予定です。

お義父さんたちとの約束までは
まだ時間がありました。
ニュースをボーッと見ながら、
二度寝しようかな?と思いながら
妻がナワテベーカリーのパンを
食べたいと言っていた事を思い出しました。

ナワテベーカリーは、
実家の地元のパン屋さんです。(今住んでるところからは距離があります。)
お客さんが2,3人入れば動きがとれないくらい小さな店ですが、
食べれば何か懐かしさを感じるような味わい深いパンを売っておられます。

妻は、ここのボインパン(バターパン)が大好きです。

妻が寝ているうちに買ってきて
びっくりさせようと思いました。
急いで着替えると

妻が物音を聞き
「どこ行くの?」

「パン屋行ってくる。」と私。

「私も行く!!」とのこと。

二人で車に乗って買ってきました。
ボインパン。

なんの変哲もひねりもないパンですが
これがなかなか、やめられない。

食べるとふわっと、
噛むとバターがジュワっと。

まさに王道。

大きなパンですが、
すぐに食べてしまいました。


聖書にはパンの話がたくさん出てきます。
例え話、作り方や食べ方まで。
食物=パンとして書かれています。

有名なところではこの箇所でしょう。


 マタイ4:4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである』と書いてある」。


これは、簡単に説明すれば、
パン(食物、経済)は人にとって、とても大切なものです。
しかし、もっと大切なものがありますよ。
それは、天の恵み(祝福{神の口から言葉と共に出る息GODBLESS})
そして、天の真理(教え)(神の御言葉)です。

パンを食べながら
NHKの「おひさま」なる連続ドラマを見ました。
(毎日しているみたいですが、月一ぐらいでたまにしか見ません)

この日の回は
夫が、自分の夢のために
家族を置いて遠くに行ってしまいます。
それを心配して
妻がそこに行くというものでした。

ドラマの中の
夫は、妻の顔を見て一言。

「どうした?」
それを聞いて、その人の妻は困り顔。

これを聞いた私の妻は、怒っています。

「こんなこと言われたら、たまらない。(子供置いて自分も置いていって心配してき来たのに。)」
そのヒロインの気持ちになってプンプンしています。

「じゃあどう言うたらいいの?」と私。

「知らん!!」と妻。
その前に置いて行くなってことでしょう。

プンプンしているので
少しおどけて、
私はドラマの夫役のマネをして言いました。

「どうした?」と私。

キッと妻は、私を見ます。

「眉毛は、どうした?」とまたモノマネしながら私。

妻は、まだ
ノーメークで
眉毛が半分しかありませんでした。

妻は、笑いながら
「これでも大分(昔に比べて眉毛が)生えてきたでしょ。」

「そうやね。」と私。
眉毛のない妻とパンを食べながらテレビを見て
笑い転げました。


ピレモン1:7 私はあなたの愛から多くの喜びと慰めとを受けました。それは、聖徒たちの心が、兄弟よ、あなたによって力づけられたからです。


イエスさまは、多分優しくて、楽しい方だったと思う。
難しい顔をした人のところに子供はやってきません。
しかし、イエスさまの周りには、子供が近づいてきました。
柔和で笑顔を絶やさなかったのだろう。

イエス様のように愛を与え、喜びを与え、人を力づける
そんな神の喜ばれる人となっていきたい。


ピリピ4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。


どんな時でも、どんな状況であっても、
喜べる強いものとなりたい。

そのために辛いときには
祈って
自分の心に命ずる
「(神様が共にいて守って下さるから)喜べ。喜び叫べ。」と。

笑っているとイイことが、後からついてきます。
午後に会う姉妹から妻にメールが来ました。

メールを見た妻は、
「ヤッター。」叫んでいます。
聞いてみると
午後に姉妹のお父さんの畑でイモ掘りさせてもらえるとのこと。
「イッモホリ。イッモホリ。」
よくわからない自作の歌を歌っています。
妊娠してるのにイモを掘れるのかなと思いながらも
テンションの高い妻を尻目に
聖書の勉強をしていると
いつの間にか時間は過ぎて
お義父さんたちがやって来ました。


続く

2011年9月17日土曜日

私にも夢がある。

I Have a Dream.


   友よ、私は今日皆さんに 申し上げたい。 
 
今日も 明日も いろいろな 困難や挫折に 直面しているが

それでもなお 私には夢がある。

それは   アメリカの夢に深く 根ざした夢なのである。

 私には夢がある。

いつの日か この国が 立ち上がり、わが国の信条の

次の言葉の真の意味を貫くようになるだろう。

『私たちはこれらの真理を自明の ことと考える。

すなわち、全ての人間は平等に造られている』。

私には夢がある。

いつの日かジョージア州の赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちと

かつての 奴隷主の子孫たちとが、 共に兄弟愛のテーブルに

着くことができるようになるだろう。
 
 私には夢がある。


 いつの日か  このミシシッピ州も、 このような不正義の暑さにうだっており、

このような抑圧の暑さにうだっている  この地域でさえも

 いつの日か  自由と正義のオアシスに変えられることであろう。 

私には夢がある。

いつの日か私の幼い四人の子どもたちが、彼らの肌の色によって評価されるのではなく

彼らの人格の深さによって  評価される国に住めるようになることであろう。

 私には今日、夢がある。

私には夢がある。

いつの日かこのアラバマでも、 目下のところ悪意に満ちた民族主義者に牛耳られており、

連邦の決定に対して 知事の口から 「干渉」とか「取消し」という言葉しか出てこない

このアラバマ州においても、 いつの日か幼い黒人の少年たち・少女たちが、

幼い白人の少年たち・少女たちと手をつなぎ、

兄弟姉妹として歩けるようになることであろう。

今日、私には夢がある。

私には夢がある。



イザヤ40:
4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。

盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。

5 このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。

主の口が語られたからだ。」

     
これが私たちの希望なのである。


 こういう信仰を持って、私は南部に帰る。

 こういう信仰があれば、私たちは絶望の山から希望の石を切り出すことが出来る。

 こういう信仰があれば、私たちはこの国の騒々しい不協和音を、 

 兄弟愛の美しいシンフォニーに変えることが出来る。


こういう信仰があれば、 私たちは共に働くことができる。

共に祈ることができる。

共に闘うことができる。

共に監獄へ行くことができる。

共に自由のために立ち上がることができる。

いつかは自由になると信じることができるのだ。

その日こそ、神のすべての子どもたちが、

あの歌を新しい意味を込めて歌ことができる日となるであろう。

わが国、それは汝のもの、麗しき  自由の国。

われは汝を讃える。

わが父祖たちの死せる国、巡礼父祖の誇れる国、

すべての山腹から自由の鐘を鳴り響かせよもしアメリカが偉大な国になるべきなので

あれば、このことが実現しなければならない。
   
だから、自由の鐘を鳴らそう   ニュー・ハンプシャーの大きな丘の上から。

 
自由の鐘を鳴らそう、ニューヨークのそびえ立つ山々から。


自由の鐘を鳴らそう!
 
ペンシルヴァニアのひときわ高いアレゲニー山脈から!
 
 自由の鐘を鳴らそう!

コロラドの雪を頂くロッキー山脈から!

 自由の鐘を鳴らそう!

カリフォルニアの曲がりくね った坂道から!

それだけではない。自由の鐘を鳴らそう!

ジョージアのストーン・マウンテンから!

自由の鐘を鳴らそう!

テネシーのルックアウトマウンテンから!

自由の鐘を鳴らそう!

自由の鐘を鳴らそう!

ミシシッピのすべての丘やモグラ塚からも!

 山腹のいたるところで 自由の鐘を鳴らそうではないか!

 私たちが自由の鐘を鳴らせば、その時にはすべての村という村で、

すべての集落という集落で、すべての 州という州、街という街において、

神の子どもたちとなったすべての者らが、
 
黒人も白人も、ユダヤ人も異邦人も、プロテスタントも
カトリックも、

 すべての者らが手に手を取って、

あの古い黒人霊歌を口ずさむようになることであろう。

「自由だ!自由だ!   全能の神に感謝すべきかな。  私たちは ついに自由になった!」


                               
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
1963.8.28.ワシントン大行進でのメッセージ



キング牧師は、
人種差別が
吹き荒れる中、
私には夢がある。(I have a dream.)と叫び
とうてい、
その当時では、
実現不可能な
自由宣言し
夢を語った。

しかし、
今それは実現し、
いや、期待し希望したもの以上のものが
考えうるもの以上のものが
現実となった。

そこにはキング牧師が
夢の実現のために
前進し努力し
その命を
注ぎ削ったからからだ。


 ヨハネ12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。


今、その夢の証である
アフリカ系の大統領は言う。
私たちには出来る。(Yes.We can.)と。


ある人は言う。
誰でも努力すれば、夢がかなうわけではない。
しかし、夢を叶える人は、皆すべからず努力している。と。

しかし、イエス様は、言われる。


マルコ 9:23 「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」



私たちが夢を持ち、
前進し努力し
信じ続けるのなら
それは、実現するのである。

それがイエスの名によって
するのならなおさらである。

イエスによって夢を持ち
イエスによって歩み
イエスによって信じるのなら
イエスによって実現するのだ。


 ヘブル10:23 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。


私たちは夢を語ろう。
希望を告白しよう。

私も言おう。

私にも今日、夢がある。

私にも夢がある。

私は今日、イエスキリストによる夢があり、希望がある。



2011年9月14日水曜日

水曜礼拝

今日の
水曜礼拝の
メッセージは
心の一新です。


ローマ12:
1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
 2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

2011年9月13日火曜日

バタフライ

最近、
日曜日の礼拝の
メッセージ(お話)も
させてもらっています。

私などが、
講壇に、それも日曜日(聖日)に
させてもらえるとは
本当に感謝だ。

私は、
先生がされているような
メッセージは、できないので
違う角度からの
視点のお話をしようと
考えています。

しかし、
できれば大胆に
神の愛(福音)を
語るようにと
務めています。


エペソ6:
19 また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。
 20 私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。


パウロは、
鎖につながれながらも
みんなの祈りのおかげで
大胆に語り福音を
のべ伝えました。

私のために
とりなして祈って下さる方が、
いるゆえに
メッセージするときに
自分以上のものが
満ちてくるのを感じます。

とはいえ、
まだ私は未熟で
牧師先生にも
叱られることも
多々あります。
訓戒を胸に
さらなる高みまで
登りたい
そう思います。

話は変わりますが、
自分のメッセージの後は、
なぜか、いつも以上に
お腹が空きます。
礼拝が終わると
お腹がキュルキュル鳴っています。


マタイ 4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」


イエス様は、人はパン(食物)だけで生きる(肉体的な生)のではなく、
神の御言葉(聖書)によって生きると(霊的な生)
言われました。
霊的にお腹が、いっぱいになると
今度は
(肉的な)お腹が、悲鳴を上げるようです。

日曜礼拝の後の
昼食は、
奇遇にも
パンでした。
牧師先生がパンを
ドンドン
焼いてみんなに配り
ある意味、聖餐式(パンとぶどう酒を飲む式)のようでした。

姉妹が
自家製のイチジクのジャムを
ちょうど(パンって知っていたのかな?)
作って来てくださっていました。
初めてイチジクのジャムを
食べました。
美味しくて塗りすぎたように
思います。

また、別の姉妹が
ポテトサラダを作ってくださっていました。
じゃがいもの好きな
私は、
妻が礼拝所にいる間に
3回も、おかわりしてしまいました。
(ダイエットもうまくいかないはずです。)

さらに、別の姉妹が
シチューを作って下さっていました。
パンとシチューの組み合わせは、
なんて合うんだと、
食べていると
中にヤングコーンが
入ってました。
(シチューにヤングコーン入れるんですね。)
私はヤングコーンのあの食感が大好きです。
レストランのサラダバーなどで、
ヤングコーンがあれば、
お皿にそれだけを山盛りにして持ってきて
妻にいつも、あきれられているほど、食べて
メインが食べれなくなるほど好きです。

満足しながら
食べていると
教会の子供たちとプールに行く時間になり
ヤングコーンに
後ろ髪を惹かれながら行きました。

教会のすぐ後ろにプールが
市民プールがあるので
リーズナブルで便利です。
冬はスケートもしているそうです。

台風の影響か、
その日は晴れていたのに
プールは、混雑もなく
ノビノビ泳ぐことができました。

私は、深い方のプールに
行きました。
一緒に行った子は、
泳ぎがうまく
背泳ぎやバタフライを
器用に泳ぎます。
対する私は、クロールの泳ぎ方も
半分忘れている始末です。
バタフライの泳ぎ方を
少し教えてもらいましたが、
とても、うまく泳ぐどころか、
手が飛んでいってしまいそうなので
平泳ぎでチョロチョロ泳ぎました。

浅い方のプールに行くと
顔を水につけれるようになったから
見て欲しいとのこと。
見ていると
真剣な顔で水に向かって
睨みつけたかと思うと
水に顔を付けて1秒ほど付けて
水に濡れた顔をふきながら

「見てくれた。」叫んでいます。

「すごい。顔付けれたね。」と私。

ドヤ顔(得意気な顔)で、嬉しそうです。
(この前まで、上手に泳ぎを教えてくれる姉妹が、
顔付けてご覧というと「死ぬー。」と絶叫してたことに比べたら大躍進です。)
(その子の3才の弟に、顔を付けることを教えたら、ものの数秒で出来たのは内緒。)

時間が来たので
みんなに帰ることを告げると
3才の男の子が
帰りたくないと泣きながら
洗面所の方へ走っていくので
慌てて追いかけると、
シャワー室の下に貯まっている水の中で
「俺は帰らんぞ。」とばかり、
大の字で寝ていました。
そこをかつぎ上げて
教会まで帰ってきました。

帰ると交わり会(談話会)が
始まっていたので
慌てて参加しました。

その日は
東北大震災のチャリーティーコンサートもあり
みんなで参加しました。

プールで疲れた私は少しコクコクしながら
素晴らしい歌声を聞きました。

そして、帰宅しました。

少ししか泳いでないのに
身体ギシギシで痛いです。
(運動不足を実感。)

私がプールに行っている間、
教会ではぶどう狩りの話で
盛り上がっていたみたいで、
妻は、
また熱くブドウ狩りに始まり
ナシ狩り、イモ掘りの
話を聞かされました。

妻が、ぶどう狩りの話をするのは、
お花畑で蝶々(バタフライ)を追いかけてるよう少女のように
楽しげでした。

どうせ行くなら
教会のみんなで行くなら
楽しそうだ。


ヘブル10:
24 また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
25 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。


2011年9月9日金曜日

ビデオカセット

定期的に妻の妊娠検診のために
産婦人科に行きます。

女性スタッフだけというのが
病院のウリです。

その効果か、
とにかく混んでいます。

7時半予約で
11時に終わるなんてことは
ざらです。

最初は車で待っていたのですが、
最近は一度家に帰って待っています。

待っている妻も大変そうだ。

最初、米粒ほどだった(3ミリほど)だった
お腹の子も
もう、16,5cmにもなっているそうです。

子供が大きくなるのは、あっという間です。

と、
一人前の父親みたいのことを言ってみる。

病院で
エコーの動画を
録画してくれるとのことだ。
録画用のビデオカセットを
持ってきて欲しいとのことで
この検診で持っていきました。

検診から妻が
帰ってきて見ようと言うのですが、
さすがに
レンタルビデオもDVDの時代、
再生デッキがない。

しょうがないので
私の学生時代からの愛用の
埃のかぶったビデオデッキを
引っ張り出してくる。

カセットを入れると
なんとか動くようだ。

3分ほどの
白黒のエコーの画像の動画を見る。

アッチからのエコー画像
今度はコッチから。

寝ているらしく動かないし、
よくわからない画像だ。
しかし、必死で見ている自分がいる。

股のところに写ってないので
女の子かもしれないとのこと。
(男のこは、すぐわかることが多いが
女の子は確認ができないので断定はできないらしい。)

見終わると
妻が巻き戻し、
間髪入れず、
最初から見始める。

私は、「何度も見るほど、面白い映像じゃないね。」と言うが、

「そう?」と気にせず見る妻。

次の日、
体調が崩れ、仕事を休んだ妻は、
お義父さんとお義母さんと
合わせて、
5度ほど見たそうだ。

見るたび
みんなで、
ニヤニヤしながら見たそうだ。

孫が生まれるのを
今か今かと待ちわびているようだ。
もともと優しいお義父さんとお義母さんだが、
最近、さらに私にも優しいように思う。

ひとつの命が生まれるということは、
こんなにも喜ばしいことなのかと実感する。
まだ、生まれてもいない
子のことを話していると
なんとも今まで味わったことのないような感情が湧いてくる。
(これが親から子への愛なんだと思う。)

私の生まれるときも、そうだったのかと
親への感謝の気持ちが出てくる。
(親の期待には添えないで親不孝に生きてきたように思います。)
自分が献身(神の道に入ること)の決意を語ったとき、
父は「こんな嬉しいことはない。」と泣いた。
初めて父の涙を見たように思う。
これからは、少しは期待に答えたいと思います。


神様は、人を創造されました。


 創1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
 28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
 29 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。
 30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。
 31 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。


神は6日目に
人を創造し
祝福し、
支配権を与えている。
食物を教え与えている。

そして、見て太鼓判を押している。

「それは、非常によかった。」

この御言葉に神様の喜びの気持ちが伝わってくるようだ。

親になろうとしていることによって
この神様の気持ちが少しだけでも、
わかってきたように思います。

そして、父なる神に対しても
親不孝(?)してきたので
これからは(命懸けで)期待に答えたいと思います。

2011年9月5日月曜日

日曜日と水曜礼拝

今度の日曜日は、
ラザロの復活のところから
メッセージさせていただきたいと思います。


ヨハネ11:
32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。      もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
 33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
 34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
 35 イエスは涙を流された。
 36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
 37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。
 38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。
 39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
 40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
 41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
 42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
 43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
 44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」


私の好きな箇所で
よくメッセージを
させていただいているところですが
導きを感じるので
この箇所をしたいと思います。

十字架の箇所のメッセージの続きが
まだ残っていますが、
先になりそうです。
十字架の話は、毎回する話ではあるのですが。

水曜祈祷会のメッセージは
先週に引き続き
聖霊の話の続きをしたいと思います。


ヨエル2:
28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。
 29 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。
 30 わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。
 31 主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
 32 しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる。


個人的には
霊的な話は、まだしたくないのですが、
必要になってきたと思うので
続きをします。

2011年9月1日木曜日

さくら

家庭礼拝を
姉妹の家でしました。

前日から
手土産は、
買ってあるので
準備はバンタンです。

朝、先生から電話があり
コストコで
ピザを手土産に買ってきなさいとのこと(あと、教会で使うお水と)
お店は、尼崎にあるので
お家は、西宮なのでお隣の県だから
そんなに遠くない。

2時間前に
車に乗って出発。
じゅうぶん、間に合う時間。

高速に乗ると
お休み中で
みんな、遠くにお出かけしているのか
ガラガラで
20分もかからず
コストコ到着。

コストコ

さっきの高速とは真逆で
人の波でひしめき合っている。
カートを押して入る場所もない。
(また、カートが大きい。スーパーのカートの倍。でも、水を載せるためには必要)

なんとかかんとか
ゆっくりそろそろ
他のカートとの接触をしないで
水の売り場に到着。

あれ、
いつも買っている水がない。(500ml×35本 580円 とても安い。)
山のように積み上げられているものがない。
1Lは、あるのですが。(500mlが欲しいとのこと)
結局、大きなカートを押して
大きい店内を回ったのに
何もカートに入れず一回り。
まわりの方が迷惑そうに見ている。(申し訳ない)
妻も少し急いで私にフーフー言いながらついてきている。

時間と気をすり減らし
フードコートのピザ売り場に(店の構造上、先に注文できない)
また行列ができている。

なんとかレジに、
たどり着き注文する。

待てど暮らせど出来上がらない。
聞いてみると私の前に10人くらい
先に注文した人がいたようだ。

やっと出来上がり
アツアツのピザを持って
車に乗り込む。

あと30分。
隣だから、
先生にコピーを頼まれたものをしても
なんとか間に合う。

ナビをセットして
びっくり尼崎と西宮で
近いと思っていたら
結構な距離だ。

コピーするコンビニを探して
下道を走ると
結構な渋滞。

ドンドン時間がせまり
先生からの
おとがめの電話。

コンビニを見つけ飛ぶ込み
車に乗ると
先生からコピーが
いらないとの連絡。

西宮についたのは良いが、
ナビでは家の場所がわからない。
くるくる回る
姉妹に出てきて貰い
なんとか車を止めれました。

30分ちかく
遅れてしまうことになりました。

姉妹を待たせ
みんなを待たせ
先生を待たせ

なによりこのことが重要。
決めた礼拝の時間を遅らせてしまい
神様を待たせてしまった。
本当に反省。
こんなことがないようにしなければ。


詩篇 70:4 あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「神をあがめよう。」と、いつも言いますように。
 5 私は、悩む者、貧しい者です。神よ。私のところに急いでください。あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください。


聖書のこの箇所が
私は好きだ。
一見、「遅れれないでください。」と
偉そうに疑って言っているように聞こえるが
ここにはダビデの神様に信頼による懇願と叫びが
込められていて恵まれる(感動する)。

そして、
人間同士でも
いつも、よく遅れて人を待たす人が
そのいつもよく待たしている相手に、対して遅れるなとはいえない。
(そういう人もいるだろうが、チャンチャラおかしい。)
人間同士、対等でさえ、そうであるなら
目上の人であれば、更にそうです。
(いやむしろ目上の人を待たせるようなことはしないでしょう。
社長を待たせる一従業員、そんな人よっぽどだ。)
全知全能の至高の神様、
主にに対してであれば、
言うまでもない(さらに何か頼み、願うのであれば、それにつけ加えられる。)
私たちは、なんの気なしに神に対し失礼なことをしているときがある。

祈りにしてもそうだ、
「祈りが聞かれなかったから神様などいない。」という人がよくいるが、
(自己中心的な考え方だ。気持ちわかリますが。)
神を自分の祈りを持って、動かそうとし、
それがないから、存在を否定する。
たまに言いたくなるが、グッとこらえる。(気持ちはわかるんだ。自分もそうだったから。)
私の知る全能の神は、
あなたにコントロールされて、
あなたの小間使いをするような方ではないと。


箴言9:10 主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。


おそれかしこみ、主の約束通り(聖書通り)
求め祈るなら、
本当に主は、助け祈りを聞いて下さる。

ここにはダビデが主へ、
時を守り、約束を守ってたからこそ
このように、「遅れれないでください。」と
懇願することができたのだ。

そして、遅れない主(神)の助け、約束のものが与えられるのだ。


イザヤ46:13 わたし(神)は、わたしの勝利を近づける。それは遠くはない。わたしの救いは遅れることがない。わたしはシオンに救いを与え、イスラエルにわたしの光栄を与える。」

救いを求める時に
「遅れれないでください。」と言えるように
遅れず守らなければならない。


申命記23:21 あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。あなたの神、主は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである。


しかし、感謝のことに
神は
心がとてつもなく広く
赦しの神様です。


 Ⅱ歴代誌7:14 わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。


そして、さらに今は、
イエス様がすべての罪を背負って
十字架に釘付けとしてくださいました。


Ⅰペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。


足りない私が遅れてしまったことも
主はすぐに赦して下さるから感謝です。
精一杯したこともわかって下さる方だ。
次に活かせばいいんだ。

遅れはしましたが、
主は私の悔い改めを覚えてくださり
家庭礼拝は
先生のすばらしいメッセージも
相まって
とても恵まれた祝福の時となりました。

そして、みなさんは遅れてきた私を
咎めるどころか、
理由(言い訳?)を聞いて、
いたわりねぎらってくれました。

また、姉妹には沢山ご馳走になり、
感謝です。

とても良い家庭礼拝となりました。

お家は
桜が綺麗なところなので

さくら

またその時期に
どうかな?と
勝手に思っています。