この箇所は、
ハガルが逃げ出し、さまよっているところに
神の使いがあらわれ導き、祝福する。
それに驚き、ハガルは「ご覧になる神(エル・ロイ)」と言いほめたたえる。
先日、ある姉妹が
妊娠してに食べれない妻を気遣い
サラダを作ってくれた。
礼拝後、用事があった姉妹は、
ことづけをして(持ち帰れるように袋に入れて下さっていた。)
急いで出て行った。(私のメッセージが長すぎて、礼拝が長くなってしまった。本当に申し訳ない。)
妻は、それを貰い帰ろうとしたが
台所にいた方に伝わらなくて
姉妹が作って持ってきてくれた大皿のサラダをタッパーに入れて持ってきて下さった。
誤解をとく元気がなく、その旨を私に伝え帰った。
用事を済ませて教会に帰ってきた姉妹が、気づき私に渡して下さった。
私は、帰宅して何気なしにそれを冷蔵庫に入れようとした。
その時、姉妹の心遣いに感動した。
袋には、すぐわかるように付箋で名前が書かれており、
中のサラダは、何回かに分けて食べれるようにタッパーに入れられ、
飽きないようにドレッシングも何種類も入れたあった。
その隅々まで届く気づかいと愛に、涙が出そうだった。
冷蔵庫の前でサラダを持って、泣いているおっさんというのは、
あまり見栄えのいいものではないので、急いでそれを入れ,
その感動を伝え、絶賛した。(材料も妊婦が、とるべき食材をつかっていた。)
そういう心遣いができる方が、教会にいることを誇りに思う。
しかし、教会にはいろんな人が来ます。
いろいろな問題を持って教会に、カウンセリングや相談にきます。
その中には嘘の相談をして、ちょっとでも何かお金を騙しとろうとする人が来ます。
うちの教会の先生は、それにものの見事に引っかかりだまされたことがあります。
電車賃がないと言えば、お金をあげ、
食べるものがないと言えば、自分の食事をあげ、
必ず返すという約束を信じて、貸してあげ(少額ではあるが、返しに来たためしがない)
何度言っても駄目でした。それをしてあげるのです。そして、何か喜んでいます。
ほとほと見果てた私が、小額でもお金はあげない貸さない取り決めをしました。(食べ物はOK)
こんな話があります。
アメリカの名ゴルファー、ロバート・デヴィンセンゾが、
トーナメントに優勝したときのこと。
ひとりで駐車場を歩いていく途中、若い女が近寄ってきた。
「あたしの赤ちゃんが重い病気でいまにも死にそうなんです。
でも、お金がなくて病院に連れて行くこともできません・・・・・・」
「これで赤ちゃんを助けてやりなさい」
そう言って、彼は女の手に小切手を押し込んだ。
翌週、彼がクラブハウスで昼食を食べていると、
連盟の役員が彼のテーブルに来て言った。
そいつは詐欺ですよ。その女には病気の子なんかいないし、
結婚だってしてないんですから。だまされたんですよ」
デヴィンセンゾはそれを聞いて言った。
「そりゃ、今週聞いた中でいちばんいいニュースだ」
少し先生の気持がわかったように思います。
聖書にはこう書いている。
Ⅰコリント6:7 そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。
もちろん騙されることがいいことではありません。
わかった上で、覚悟の上で、
しかし、それを甘んじて受け入れてあげれるくらい、騙されてあげられるくらい
大きな器の人間になることは、素晴らしい。
この話を元に作られたCMがあります。
ふたつのタイプの人がいる
嘘をつく人と、つかれる人。
「よう、だまされたな。
今の人、病気の子供がいるといっただろ。
あれ、うそなんだ。」
すると友人は、微笑んだ。
「よかった。病気の子供はいないんだ。」
深いところに灯がともった。
いまだに覚えていています。
そして、この動画のコメントを見ると絶賛の嵐です。
「こんな器の大きい男になりたい。」
「かっこいい」
「感動する、泣けた。」
とっても高評価です。
見ているものを感動させる人生。
素晴らしいと思います。
しかし、人はいつでも見ているわけではありません。
見ている時だけ、良いことをする
そんな生き方は嫌です。
神様は、いつもご覧になっていると意識することがその助けとなるでしょう。
私は、神様に絶賛され、天国で絶賛の嵐を受ける人生を歩んで行きたいです。
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