最近、娘が
よく笑うようになってきました。
とにかく
お腹が一杯だと
機嫌が、いいみたいです。
(私に似て食いしん坊。ちょっと飲みすぎで大きくなりすぎのように思います。)
ミルクを飲んで
寝ながら
よく笑っています。
でも、その笑い顔が
私にそっくりです。
(私が、よくするらしい笑い方。)
片方の口の端だけを
あげてニヤリ ( ̄ー ̄)
という感じで、わらいます。
(私に似てしまい、女の子っぽくない、笑い方をすることを申し訳なく思う。)
それでも
子供が笑うと嬉しい
自分がいます。
笑い顔を見て
一緒に笑い、
(はたから見れば、親子で同じ顔でニヤ×ニヤと笑っているのは不気味かもしれません。)
妻には鼻の下が伸びてるよと言われる。
娘が泣きだすと
「どうしたん?どうしたんや?」と
泣きそうな顔で
あわてふためき
ウロウロする私がいます。
(妻には聞いても答えられないから、抱いてあげてと怒られます。)
親の愛とは、
子と笑い、子と泣くものと知る。
そして、子供が喜び生きることを
強く(時に命をかけてでも)望む。
ヘブル12:7神はあなたがたを子として扱っておられるのです。
イエスキリストを受け入れるとき、
神は自分を受け入れたとし
私達を子として扱って下さいます。
そして、いのちを捨てて愛してくださった。
私達が喜び生きることを切に望んで下さっている。
私達が笑う時、神もともに喜んで下さる。
ローマ12:12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。
祈りを聞いてくださる方がいるから
私たちは、患難の中にあってもに耐え
(これが私たちを強くする。何もなければ何もないで悲観するのが人間だ。)
希望を抱き喜び生きることができる。
心を定め希望を持って歩むのならば必ず道は開けてくる。深い喜びもそこから生まれて来る。
松下幸之助さんは言う。
人生を歩むとき、
道が閉ざされたように見え、
神は、おられないのかと
思ってしまう時がある。
しかし、
それは神の大きな計画の一部であり
脱出の道も用意されており(越えられない試練を神は与えない。)
深い喜びを得させる幸福への過程なのだ。
クリスチャン作家のドフトエフスキーは言う。
それにしても、喜びと幸福は、なんと人間を美しくするものか。なんと心は愛にわき立つものか。
どうせ生きるなら
どんなときも喜び
美しく生きたい。
子供が生まれてから
こういうことを言われる。
「人生で今が一番いい時だ。」
まさか、
子供が生まれた喜びというものは本当に素晴らしいが、
イエスキリストに出会った喜びとは比較にならないし(するようなものでもないし)
その出会いなくして今の喜びはない。(私は子供が苦手でした。)
そして、
これから
もっと幸せな喜びを(患難の中にあっても)
どんどん味わい生きるつもりだ。
イエスの愛の中で。
マタイ 5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。
0 件のコメント:
コメントを投稿