先日、
娘の保育園の参観日でした。
最初、
妻が午前中、仕事を休んで
行くというので
私は行かないつもりでした。
でもよく考えると、
日曜日の行事には
出てあげることはできないし
無理してでも行くことにしました。
当日は、
車での入園は厳禁だったので、
歩いて行きました。
(歩くと結構な距離だったので汗だくになりました。身重の妻は自転車で行きました。)
少し遅れて
教室に入ると
子供たちは、お遊戯の途中でした。
父兄の方々は、
我が子の記録を取ろうと必死でカメラをまわしていました。
私も負けないように携帯のカメラを出しました。
ネヘミヤ13:14 私の神。どうか、このことのために私を覚えていてください。私の神の宮と、その務めのためにしたいろいろな私の愛のわざを、ぬぐい去らないでください。
聖書の中には、
覚えている、覚えていなさいという言葉が
結構ひんぱんに出てきますが、
これは神様の愛のこめられた言葉であると
教えられます。
私達に気付いた娘は
一目散に走ってきて
滑りこむように
私の足と足の間に挟まりました。
数秒後に顔を見上げて
満面の笑みです。
少し抱っこしてあげ、おろすと
きゃっきゃと言いながら
走ってお友達の方に戻って行きました。
お遊戯の後は、おやつの時間です。
コップを渡して貰い入れてもらいます。
娘は、今まで私達の所に来たり回りを走っていたりしたのに
コップを配り始めるとちゃんと並んでいました。
我が娘ながら、ちゃっかりしていると見ていると
コップを持ちながら他のことに気を取られ
横の男の子に牛乳をブチ撒けていました。
我が娘ながら、落ち着きがありません。
横で先生が焦って拭いてくれてるのを
どこ吹く風という感じで
ミルクを飲んでご満悦でした。
娘は、
お絵かき、ブロック遊び、絵本を読んでもらっている間も
始終、楽しみながらも、私たちがいることを覚え、
絵を書いたら、それを見せにきて、
ブロックを持ってきて膝の上で遊び、
絵本を指さし、笑顔で私達に教えます。
それを見ていると
今まで味わったことのない
感情が溢れてきました。
見てることは、大人の私からしたら
(当たり前ですが)幼稚なことです。
それなのに
そこにいると
すごく幸せな気持ちになり自然と微笑んでいました。
何故か?
そこに自分の子供がいて、
その子供が楽しんでいる、
そして、それだけじゃなく
親がいることを覚えて、
それを喜んでいる。
申命記 12:7 その所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。
神が、私達に望んでいることもこのようです。
イエスによって
神の子となり
それを覚え楽しむ、
そのとき
私達をみて、微笑んでくれるのです。